22世紀研究所・ヨット

信天翁号航海記

「海と僕の信天翁」  青木洋(あおきよう)
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何のために私は生きていこうとしているのだろうか。心の悩みは深く、重い。
高校三年生の時には、すでに受験勉強はほとんど手につかなくなった。家は出るのだが、学校には行けない毎日が続く。
そんなある夏の日、海辺にたたずんでいる前を、一隻のヨットが走っている。風を受けて傾きながら、すいすいと気持ちよさそうに走るヨット。
そうだヨットを作ってみよう。
庭で作り始めた小型ヨットは、卒業式の二日前に完成した。それから毎日、ヨットで大阪湾を走り回る日が始まった。セイリング技術は三ヶ月の間に驚くほど上達した。
でもこれではまだ満足できない。見知らぬ国へ行き、ホーン岬を周り、世界を一周できないだろうか。先輩に航海記を借り、航路を調べる。そしてまた二隻めのヨットを作り始めた。二年半かかって自作した「信天翁二世号」はベニヤ板製である。しかし外洋航海を考えて、工夫を凝らしている。
友人や家族、漁師さんに盛大な見送りを受け、堺の石津港を出発したのは1971年の6月13日であった。三年と二ヶ月にわたる航海が始まったのだ。
太平洋を横断し、サンフランシスコに着く。しかし次のメキシコまでの航海では、船体のベニヤ板にひびが入ってきた。海水が洩れてくる。沈まないだろうか。バケツで水をかい出しながら、ようやくアカプルコへ入港する。
もうだめだ。とても航海は続けられない。日本へ手紙を出した。「ヨットを売って、もう日本へ帰ります。」しかし父は、いまさら帰るなという。友人も手紙を送り返してきた。荷物を開けると修理用の接着剤と、ボルトが入っている。
そうかやはり、旅を続けよう。修理はお手の物だ。
ガラパゴス群島の次は、イースター島に着く。酋長のサンチャゴ老人とともに、二ヶ月の生活が始まる。「ヨウ、君はもう私の息子なのだから、これからも島に残りなさい。」しかしお別れパーティの翌朝、イースター島を出発した。次の目的地はブエノスアイレスだ。暴風圏の海を越えて、果たして無事に着けるだろうか。

立ちふさがる波の壁。ホーン岬に近づくにつれ、「信天翁」の見たこともない大波が押しよせる。(昭和48年1月19日)

立ちふさがる波の壁。ホーン岬に近づくにつれ、「信天翁」の見たこともない大波が押しよせる。(昭和48年1月19日)

 

転覆から起き上がり、その5日後にホーン岬を回航する。(昭和年月日)

転覆から起き上がり、その3日後にホーン岬を回航する。(昭和48年1月22日)

ホーン岬は近い。吠える40度線の海は、想像を絶する嵐が続く。深夜「信天翁二世号」は、高さ35メートルの大波に巻き込まれた。恐るべき衝撃とともに、あっと気づいたときには、ヨットが真っさかさまだ。水がどんどん入り、沈んでいく。もうだめだ。
しかしどうしたことか、またもう一度大波がぶつかってきた。その勢いでころりとヨットが、起きあがったではないか。
奇跡的に助かった「信天翁二世号」と私はその後、アルゼンチン、南アフリカ、オーストラリアと航海を続け、大阪へ帰ることができた。1974年7月28日のことである。

テーブルマウンテンをあとにして、ケープタウンを出港する。次はシドニーだ(昭和48年12月25日)

テーブルマウンテンをあとにして、ケープタウンを出港する。次はシドニーだ(昭和48年12月25日)

 

トローリングで大きなマグロが釣れた。モリを打ってひきあげた。10キロもあり1週間分の食糧となった。(昭和49年2月12日、南インド洋で)

トローリングで大きなマグロが釣れた。モリを打ってひきあげた。10キロもあり1週間分の食糧となった。(昭和49年2月12日、南インド洋で)

 

とうとう日本へ帰還する。母港の石津港を目指してセーリングする信天翁二世号(昭和49年7月28日)

とうとう日本へ帰還する。母港の石津港を目指してセーリングする信天翁二世号(昭和49年7月28日)

しかし待ち受けていたのは、成功の喜びだけではなかった。浦島太郎となって帰ってきた私は、その後六年間にわたり、後遺症に苦しむことになった。

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