22世紀研究所・ヨット

手製ヨットによる世界一周の評価

藤木高嶺(大阪国際女子大学名誉教授・朝日新聞元編集委員)1974年12月

日本ではようやくヨットによる外洋冒険時代の夜明けを迎えたような感じがする。これはヨットに対する鎖国状態がついこの間まで現実の問題であったし、日本人の海外旅行の自由化も、つい10年ほど前にはじまったばかりである事を考えると、うなずけないこともない。
一方、イギリスを中心とするヨーロッパあたりでは、その伝統と歴史はくらぶべくもなく、近代ヨットの発達と進出ぶりはまことにめざましい。1969年4月、東回り313日間で単独無寄港世界一周をなしとげたイギリス人のロビン・ノックスジョンストン氏は、企画されたレースの参加艇であった。同じレースに参加したイギリス人のナイジェル・テトリー氏は赤道付近のコースの交差で179日という早い記録で無寄港世界一周をしているが、艇を損傷して本国に帰る途中、沈没して救助されたため、大記録の達成を惜しくも逸している。一ヶ所だけの寄港による単独世界一周では、有名なイギリスのチチェスター卿
が「ジプシーモス号」で1967年5月、東回り(シドニーに寄港)で達成した275日間(実際の航海日数は226日間)という記録があり、さらに1974年3月にはフランス人ケラン・コラ氏が「マニュレバ号」で東回り(シドニーに寄港)で達成した202日間という驚くほど早い記録もある。アラン・コラ氏も激烈なレースに参加しての成果であった。このようにしてみると、ヨーロッパではいまや近代ヨットの大レース時代であり大西洋や太平洋横断レースは幼稚園時代で、すでに世界一周レースが華やかに行われているのである。使用艇もほとんどが全長10メートルで、しかも双胴又は三胴艇で、近代設備の枠をあつめた豪華艇だ。レースに勝つためには当然の策であろう。
しかし他方では、トール・ヘイエルダールのコンチキ号やラー号の帆走漂流、アラン・ボンバールの漂流大冒険、ジャンクによる太洋横断といったような冒険に徹した原始的航法による大航海もつぎつぎと実践されている。日本でもドラム缶イカダによる漂流実験や、それに似たケースはいくつかあるが、まともに目的を達したものはない。金子健太郎氏のイカダも最初の計画のときは、目をみはるような壮大な冒険を感じさせたが、二度目の「イナンナ号」にはいささか落胆させられた。「イカダ船」と苦しい弁明をするように、当初のドラム缶イカダとは似ても似つかぬ立派なイカダで、2本マストにエンジン(補助)つきだ。金子氏のプランクトンに対する執念と情熱には全く敬服するが、もっと冒険に徹するべきではないかと思う。プランクトンを目的とするなら、より完全な船を選んで安全に目的地にたどりつくべきだろうし、冒険に徹するなら、プランクトンは単なる手段としてイカダによる漂流実験の達成に全力をあげるべきだと思う。金子氏はいつか私たちの期待に応えてくれるものと信じている。
このようなヨーロッパと日本との大きな格差のなかで、ただ一人「信天翁二世」の青木洋君は、ちっぽけな手製ヨットで冒険に徹した大航海を成しとげ、世界のヨット界をアッと言わせたものだ。
3年と1ヵ月半をかけて東回り約6万キロの地球一周大航海をやりとげたヨットは全長6.5メートル、幅2メートル、2本マストのケッチ型の小さなヨットであった。「人間本来の勘を大切にする」ことを目的とする青木君の航法では、外部からの力を借りることは許されず、したがってエンジン、無線機、方向探知機などを一切積まず、コロンブス、マゼラン時代の航法に近い、星と羅針盤、天測と海図だけが頼りの“原始航法”をえらんだ。そのためには手製のヨットでやる以外にないと決意した。青木君にとっては、船体やマストを他人に造ってもらい、それが悪かった時に自分の生命をひきかえにする事はできなかった。そんなヨットには乗りたくもなかった。自分の手で造りあげたヨットこそ、自分の分身であり、なっとくのいく航海ができるものと信じた。彼はヨットと自分のことを“ぼくら”と言っている。
自作艇による単独世界一周は外国にも例があるが、これほど完全な手製でしかも小さなヨットは世界ではじめての記録だ。そこに冒険性の壮大さがあり、「恐怖の岬」と呼ばれるホーン岬を無事通過しただけでもまさに驚嘆に値することだ。これらのことは、彼が寄港したイースター島、ブエノスアイレス、ケープタウンやシドニーのヨットクラブの人たちが、お世辞ぬきで心から賞讃している言葉や態度が、はっきりと証明している。

One Comment to 手製ヨットによる世界一周の評価

  1. 杉山 四郎 より:

    アホウドリの青木氏の航海には感銘しました。ありがとう御座いました。
    イナンナの金子さんの消息を探しています。ご存知でしたら教えてください。お願いします。

    文中で、イナンナ号は2本マストでエンジン付きと記されていますが、私の見た「イナンナ号」は、竹で作った「いかだ」でした。マストもエンジンもありませんでした。舵は積んでありましたが取り付けつけてありませんでした。無線機を積みたいと言っていましたが無理なことだと思いました。
    静岡県の清水を出て、1974年6月21日にSOSを発したと記憶しています。
    SOSを出した2日後に、焼津の漁船に救助されました。

    金子さんの消息を教えて下さい。よろしくお願いいたします。

       太平洋横断ヨット チェリブラⅢ世 杉山四郎

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