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(1)坐禅の根本
坐禅は座禅、止観、三昧などの名称で呼ばれているが、英語ではメディテーションである。坐禅は特定の教義や宗旨に基づく行為ではないと言える。
なぜなら坐禅は、3大宗教が創始された時から2,000年以前に遡り、すでに存在していたことが明らかとなっているからだ。それはBC2,500年のモヘンジョダロ遺跡から発掘された、坐禅を形取った印章からも裏付けられる。
従って宗教の一要素として坐禅が発生したのではなく、坐禅が 3大宗教にとっても、重要な要素であることを示しているのではないだろうか。
坐禅は類人猿の行為としては存在しない。人類は社会化が進むと共に、坐禅の必要が生じてきたと考えられる。そして都市文明の開始と共に、さらに坐禅の必要性が高まってきたのではないだろうか。
社会の単位が巨大化して、社会の規模が地球と一体化したのが現代である。そこに生きる私たちが直面する問題とは、個人の問題であっても、常に自己と社会との両面を併せ持った問題となる。
苦しみと楽しみ、悲しみと喜び、憤りと賞賛、嫉妬と誇り、不満と満足、人生と歴史、それらは全て自己と他者、社会との関係の上に生じる。
そうであるならば科学性と宗教性を同時に身につけ、自己の問題解決は言うに及ばず、社会の問題を解決することが人生だと観じることが必要となろう。
(2)自分自身の問題
自分自身の心の構造を理解することが、まず必要である。自分の心の状態を把握することで、相手の状態を理解することが可能となる。
意識の中心である自我は、論理の力で対象を理解する。それに対し無意識の中心である自己は、直感力で対象を理解することができる。絵画や音楽、陶芸作品を鑑賞するときには、直観力が作用していると考えられる。
意識の世界と無意識の世界を、コンプレックスが仲立ちをする。コンプレックスの存在によって、自分自身の全体像を把握することが可能となるのだ。
コンプレックスを自己の弱点と考え、克服するべき対象とするフロイドの考えは誤りである。
坐禅によって、私たちは直感力の存在を確かめることができる。
ブッダは菩提樹の下で、ムハンマドはヒッラー山の洞窟中で、イエスは砂漠の中で瞑想を行い、自我を超えた存在を直感した。それは直観力によってしか、把握のできない対象があることを示唆しているのではないだろうか。
(3)自分と社会の問題
その問題が本当はどうなのか、360°の視角から見た事実と論理で確かめる。
社会の問題は自分の問題だと受け止めるならば、自分自身が身近なところで、行動して示すことができる。
他人がどうかではなく、自分はどうするのかを意識しよう。
問題に対する自分の見いだした結論は、「ではないだろうか」と常に反問することによって、慢心を防ぐことができる。コンプレックスを自覚することによって、慢心は揺るぎない自信へと変貌する。
そして他人へ示す優しさが、自分のコンプレックスを投影したものではないかを確かめることが必要であろう。
「優しい言葉」を、遠くの人ではなく、自分に最も近い人にかけてあげてください。(ダライ・ラマの言葉)
慈眼院坐禅会の案内とルールはこちらです。




























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