22世紀研究所・ヨット

11/06:月例坐禅会・坐禅和讃―坐禅の功徳 吉田

因果一如の門ひらけ         いんが いちにょの もんひらけ
無二無三の道直し          むにむさんの みちなおし

無相の相を相として          むそうの そうを そうとして
行くも帰るも余所ならず        ゆくも かえるも ことならず

「因果」-   原因と結果。また、その関係。
仏語。前に行った善悪の行為が、それに対応した結果となって現れるとする考え。

特に、前世あるいは過去の悪業(あくごう)の報いとして現在の不幸があるとする考え。

「一如」    異ならないこと。一体であること。

仏語。唯一絶対の真理。真如が異なる現れ方をしながら一つのものであること。

「無二無三」 わき目をふらずいちずになること。また、そのさま。ひたすら。

仏語。法華経に説く、仏となる道はただ一つ一乗であり、二乗、三乗にはないということ。

「無相」   -仏語。姿・形のないこと。⇔有相(うそう)。一切の執着を離れた境地。仏道修行の三解脱門(さんげだつもん)の一。三解脱門―解脱に至る方法である3種の三昧(さんまい)。一切を空と観ずる空解脱、一切に差別相のないことを観ずる無相解脱、その上でさらに願求(がんぐ)の念を捨てる無願解脱。三三昧(さんざんまい)。

「余所」    ほかの所。別の場所。また、関係のない離れた所。他所(たしょ)。

これまでの坐禅和讃を振り返ってみると・・・・、

我々は生まれながらにして仏心を持っている。しかし、人は自分の中の仏心を信じていないから、善い行いをして輪廻転生して生まれ変わりたい、苦しみから逃れたいと考えるが、それでは本当には救われない。功徳を積むには禅定(心を完全に静め統一すること)が必要不可欠である。たった1度の座禅でも、真剣なものなら悪行を消し去り、心は静寂で極楽浄土そのものだ。お経を通して釈尊の言葉を聴いて幸せを感じ、すべてのものに慈悲の心を持てば、それが仏心であり、聖人・凡人の区別のない無心の心である、と白隠は言っています。
そしてここでは「物事の原因と結果が一体であることを知れば、あとは悟りへの道が真直ぐにのびている。目に映るものへの執着から一切離れた境地を開けば、どこにいても心の平安が得られるでしょう。」としています。

「因果一如」

因果というのは原因と結果である。原因があるから結果がある。その原因を取りのぞけば結果もなくなる。釈尊の教えでは、私たちの苦しみには必ず原因があり、その原因をとりのぞけば心に平安が戻ってくるとしている。しかし、ここでは因と果とを別々のものだと区別していない。禅定により原因・結果の区別から解き放たれ、心穏やかになれば、苦楽も一体、因果も一体、迷いすらも仏心と一体だとしている。道元は修証一等、修行は悟りのための手段ではなく、修行と悟りは不可分で一体のものだとした。白隠も、我々には元々仏心があり、禅定と悟りは一体で、禅定したから悟ったという因果の関係ではないとしているのではないか。

「無相の相」

形あるものにとらわれてはいけない、なぜならこの世に永遠不変のものはないのだから。そう考えると、人の心に生まれるやり場のない悲しみ・嫉妬心・不満が自然と浄化されていく。煩悩・執着がなければ、欲望を抑えることができるし、幸福も不幸もない。そうなれば、どんな場合でも心乱れることがなく、「いつ」「どこで」「なにをして」いようとも、まるで我が家でくつろいでいるような心の平穏が生まれるという。

釈尊の教えというのはすべてをありのままに受け入れて、すべてをあきらめろといっているように感じます。あらゆるものを捨てて、捨てて、至った優しい心が悟りです。修行をすれば今の自分でも悟れるのでしょうか。よくわかりません。でもそんなことは期待せず、座っている時間をただ楽しむだけでいいのかもしれません。座禅を組むと、余計な情報から遮断されて、心と体がすっーと静かになっていく。交感神経と副交感神経でいうと、リラックス効果のある副交感神経が優位になっている状態を楽しんで、感覚と知覚の間を行ったり来たりするのがなによりの功徳でいいのかもしれません。

2010/11/06 Yoshida

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