22世紀研究所・ヨット

10/09 白隠禅師坐禅和讃を読む(7) 担当 長野利法

本文    

況(いわん)や自ら回向(えこう)して

直(じき)に自性(じしょう)を証(しょう)すれば

自性(じしょう)即ち無性(むしょう)にて

既に戯論(けろん)を離れたり

意訳

ましてや自ら修行して   

本来の自分が分かれば

迷いや不安などはなく

それはもう、すでに煩悩から離れたのだ

(臨済宗大光山宝徳寺のHPより引用)

用語の意味

況や・・・・言うまでもなく。まして。

回向・・・・梵語パリナーマナーの漢訳。廻らし向かえる。自分の修めた功徳を他に回し向ける意。また一般には死者への供養や寺への寄進をさす。ここでは「自ら」をうけて、外に向かっている心の目を自分のほうへ向け、深く内省すること。 回向返照

直に・・・・直接。じかに。 すぐに。間もなく。

自性・・・・梵語スヴァバーヴァの漢訳。そのものが本来備えている真の性質。本質。本性。

証する(証ずる)・・証明する。保証する。 悟る。

無性・・・・「無自性」の略で、実体のないこと。全く個性のないこと。

「無仏性」(仏性のないもの) の略を言うこともある。

戯論・・・・梵語プラパンチャの漢訳。戯れにする議論。無益な言論

       一切の法は空である。一切の法は戯論なし。本性空寂にして言語を離れるが故に。(理趣経)

担当者解釈

(前段で大乗の坐禅の功徳をさまざまに述べたが)まして、実際に坐禅を続けて自己の内面を深く見つめ

いざ自己の真実の本性を悟ってみると

その本性は、実体の全くない空であり、また自我の全くない仏心であり、二元対立を超えた絶対心であり、有無を超越した無でもあって

それはもはやどのような言葉でも説明できないものであることに気付くだろう

又は(前段で言う坐禅の功徳などはすべて空論に過ぎないことに気付くだろう)

解釈の補足説明

釈迦は菩提樹の下で7日間(49日の説もある)坐禅をして悟りを開いたといわれる。

その悟りがどのようなものであったのか?

釈迦がその時、喜びのあまり叫んだ言葉は「奇なるかな、奇なるかな、一切衆生は皆如来の智慧徳相を具有す」、つまり「一切衆生悉有仏性」を悟ったと言うのである。

また別の説によると、縁起の法を悟ったとも言われる。

しかし、縁起の中には無常の概念と無我(無自性)の概念がすでに含まれているから、縁起=無常=無我=仏性 つまり同じことを見方を変えて言っているともいえる。

悟りの真相は他にも「真如」とか「実相」、また禅語では「無字」「本来の面目」「一無位の真人」「隻手の音声」などといろいろの言葉で呼ばれる。

つまり、一つの言葉では説明の及ばぬものであり、逆に言えば説明の仕様がないので「言えば即ち遠ざかる」とも言われる所以だ。つまり「自性について説明すれば、それはもう既に戯論」というのが第1の解釈である。

ちなみに、すべての公案の答えは「仏性」であり、仏性に目覚めなければ理解できないし、また言葉では説明できないと言われる。

次に( )内に示した第2の解釈は次のような考えによる。

この節の前段では、短時間の坐禅でも無量・無限の功徳があると述べられている。

坐禅を讃嘆して坐禅修行者を励ます意味では有意義であろうが、いかにも過剰表現、建前に過ぎる表現で、白隠禅師の他の著作に比べて異質の感じがする。

多くの白隠著作に坐禅和讃の引用が全くないことから、坐禅和讃の白隠作を疑問視する説が一部にあるそうだが、前述の異質感もその一因ではなかろうか。

そこで、「悟ってみればそれらの功徳などの説は戯論に過ぎない」と解釈すれば納得できるのではなかろうか。

坐禅と悟りについて

坐禅によって悟る、ということについては異論もある。

しかし前述のように、釈迦はそれによって仏教を起こしたし、古来多くの祖師がそれを実証していることを疑うことはできないであろう。

だが、誰もが坐禅をして悟れるわけではない。多くの人が同じように修行して悟ることができなかったのも事実であろう。

また古来の祖師方も、悟るまでに短くて3年、長い人は30年もかかっているという。

極端な短い例では、六祖慧能禅師は薪売りをしていた時に、「応無所住而生其心」のお経の一句を聞いただけで悟ったという。

これらの差が何によるのか? それには坐禅修行の質・量の違いと、それだけでなく個人差もあるようだ。

一坐の坐禅によって無量・無限の功徳は得られなくても、その体験、またはそれに相応した功徳が、たとえ僅かであっても潜在意識にしみこんで行くのは間違いないと思う。

唯識で言えば阿頼耶識に蓄積され、現代科学で言えばDNAに書き込まれて行って、知らず知らずのうちにそれが大きな功徳になり、そしてある条件が整った時に悟りのスイッチが入るのではないか。

この功徳の蓄積には過去代々の遺伝的蓄積も考えられるから、それが生まれながらの個人差になるのではないだろうか。

従って悟る為には、坐禅修行はもとより、行住坐臥すべての時間も修行に没入して功徳を蓄積する必要があり、その期間が悟れる人で3~30年を要している。条件によっては一生かかっても悟れない人があるのは当然であろう。

況や我々におけるような月に1度の坐禅で悟りを考えることは無論おこがましいが、しかし相応の功徳の蓄積ということを考えれば、それだけでも十分有意義なことである。

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